SSブログ

井伊直弼 家紋 [歴史]

井伊直弼 家紋



安政の大獄を実行して
吉田松陰を処刑した
幕末の幕府大老井伊直弼
井伊家の家紋とは
いったいどんなものなんでしょうか?
それから、もう一つ
井伊直弼はなぜ吉田松陰を
処刑しなくてはならなかったのか?
調べてみました



2015年放送の大河ドラマ
花燃ゆ
井伊直弼を演じるのは
高橋英機さん
まずは井伊直弼の家紋
丸に橘(彦根橘)ですね



井伊家の家紋が丸に橘に決まった理由は
井伊家の始祖である共保(ともやす)
彼の出生にあります
実はこの共保という方
捨て子だったようです
井伊谷という場所の八幡宮にあった井戸
そこで拾われた共保さん



その井戸に捨てられた共保さんには
橘の果実が添えられていたそうです
井戸のそばで拾われたために
苗字には「井」の字が使われ
橘が添えられていたために
家紋は「丸に橘」ということですね



鎌倉時代から続く井伊家
一時期衰退し、滅亡しかけますが
徳川家康の時代
徳川四天王」の一人
井伊直政の時代に持ち直します
まさに井伊直政は井伊家中興の祖




武田信玄を尊敬していた家康は
武田軍団最強の赤備えを
井伊直政に再現させ
井伊家の部隊は「井伊の赤備え
として徳川最強軍団とされます

ちなみに赤備えは、大坂夏の陣で
真田幸村の部隊でも使用され
徳川家康の馬印を倒すという
武田信玄と幸村のみ成し遂げた
抜群の働きをしたのです




そして井伊直政は家康の信頼を得て
直政の娘は
家康の四男・松平忠吉の嫁になります
これによって松平信吉の義父となり
関ヶ原の戦いにおいては信吉を補佐
猛将福島正則を出し抜いて
先陣をきるという活躍



関ヶ原の戦い後、褒美として
石田三成の居城、近江佐和山城
この名城をもらった井伊直政
ただ、敵の石田三成の居城を嫌った直政
新城を築城しますがその途中で病没


井伊直政の息子の直勝は
彦根藩に移動して彦根城築城
幕末まで彦根藩は存続します



彦根藩では5人の大老を輩出する
名門として江戸時代を過ごします
ちなみに明治時代に井伊家は
伯爵の爵位を手に入れてますね






さて、井伊直弼ですが
彦根藩では14男という
家督相続が行われるとは
夢にも思っていなかったでしょう





井伊直弼は14男で
生涯、日が当たることはない
といわれながらも
文武の修行を怠ることはなかった
といいます



ちなみに武芸以外にも
茶道や和歌など
風流に通じたことによって
井伊直弼は「チャカポン(茶・歌・鼓)」
とあだ名されたといいます




では、運命づけられたように
彦根藩主となり
そして幕府大老にまでなった
井伊直弼
なぜ吉田松陰を処刑したのか?
それを述べていきたいと思います



まず、井伊直弼と吉田松陰
お互いに相手をどう思っていたのか?



当然かもしれませんが
井伊直弼からすれば、吉田松陰は
全くのアウトオブ眼中
彦根と藩30万石の藩主である直弼
長州藩士の松陰のことを
意識していなくて当然です



では吉田松陰は井伊直弼のことを
どう見ていたのでしょうか?
実は吉田松陰は井伊直弼のことを
名君として賞賛していたのです
なぜ?





井伊直弼さんは、彦根藩では
非常に領民思いの名君
として慕われています
藩主になった際
真っ先に領民を気にかけて
抜群の藩政改革によって
善政を敷いたといいますし



そんな直弼を知った松陰は
非常に感動し、自分の兄貴に
手紙でその感動を伝えたほど
しかし、そんな松陰を
絶望させる事件が起こってしまいます
日米修好通商条約の締結です



その前に知っておいてほしいのは
松陰は尊王思想家ではありましたが
討幕派ではなく佐幕派
それでいて結構な過激派
だったのです



つまり、京都の朝廷を
非常に尊重していたのが
吉田松陰なのです



そんな中で、井伊直弼は
朝廷の許しももらわずに
勝手に日米修好通商条約を
結んでしまいます
この日米修好通商条約
領事裁判権(治外法権)
関税自主権なし
という
非常に不平等な条約でした
国を開くためには
新興国日本が諸外国に圧力をくらう
仕方ないことであったのでしょう



しかし、そのことに切れたのが
尊王、過激派の吉田松陰
朝廷を軽んじて許可を得ず
しかも不平等条約を受け入れた
井伊直弼に対して
マッドネス松陰はさらに狂暴化
井伊直弼の腹心の
間部詮勝の暗殺を企てます




間部詮勝とは
安政の大獄という井伊直弼の
反対派弾圧運動を主導した人物



間部詮勝を暗殺したほうがいい
と、藩の重役・周布正之助に進言
ご丁寧に暗殺計画の詳細をも上表した
マッドネス松陰


黒船に乗って国外脱出までした
行動力抜群の松陰を警戒した長州藩は
松陰を再びとっ捕まえて野山獄へ
マッドネス松陰
再び獄中へ



その後の松陰は江戸へ送られ
幕府の取り調べを受けます
松陰という過激派を放っておいたら
自らの身も危険な井伊直弼
吉田松陰の処刑は
避けられないものだったのでしょう
そして、1859年10月27日
吉田松陰、斬首
享年30歳



その後、松陰は尊皇派の水戸藩士に
襲撃され
1860年3月3日
桜田門外の変で死去
享年46歳



吉田松陰が埋葬されたのは東京世田谷の
松陰神社
そして井伊直弼が埋葬されたのは
同じく東京世田谷の
豪徳寺
というお寺
豪徳寺は井伊家の菩提寺ですからね



世田谷線の松陰神社前と
小田急線の豪徳寺
同じ世田谷区ですね
安政の大獄で
処刑された松陰と



処刑した井伊直弼




150年後に同じ地区で眠っている
なんだか不思議な縁がある気がしますね


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。