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あさま山荘事件 人質 女性 [歴史]

あさま山荘事件 人質 女性


1、あさま山荘事件での人質女性は
  一体どんな人なのか?

2、現在人質女性はどうしているのか?


>あさま山荘事件での人質女性
いったいどんな人なのか?



1972年2月19日から28日
長野県北佐久郡軽井沢町にある
河合楽器の保養施設
浅間山荘」で
左翼組織
「連合赤軍」による
人質立てこもり事件が発生



あさま山荘事件は
2月28日に機動隊が突入し
人質を無事救出
犯人5人全員逮捕となりました



人質になってしまったのは
あさま山荘の管理人の妻(当時31歳)
219時間もの間監禁されていたようですが
事件直後、どうなったのでしょうか?



人質となった女性のお名前は
牟田泰子さん



人質女性は病院に入院後、無事に退院
しかし、その入院先の病院に
新聞記者が忍び込んだり
人質女性への取り調べの模様が
なぜか新聞に掲載されたりと
警備が緩かったようです



人質としての扱いもひどいもの
1日1食しかもらえず
2月26日以降はコーラ1本だったとか



新聞にはなぜか人質女性と
連合赤軍との交流があったような
掲載がされていたようですが
人質女性本人がそれを否定しています



救出後の牟田さんが
「犯人は紳士的だった」
と証言したと報道されたそうですが
そんな証言していないのでは?




映画「突入せよ!あさま山荘事件」では
犯人と人質女性とのシーンは
全くないのですが
後の別映画
「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」
では、犯人が人質を大切に扱う
というシーンがありました



しかし、実際には違ったようですね
食事はまるで、ごった煮のようだった
と証言しています



>現在、人質女性はどうしているのか?



あさま山荘事件は、後に
幾度もドキュメンタリー番組
映画になりましたが
人質女性は
無言を通しています
「犯人は紳士的」と発言した
という嘘の報道によって
「警官2人と一般人1人を殺害した犯人を
紳士的とは言語道断」
という批判を受けてしまったことが
原因でメディアを嫌った
という噂もあります



その後については
調べてもわかりませんでした



ちなみにその後のあさま山荘は
取り壊して立て直され
現在は中国の企業が所有しているそうです



テロ事件が頻発している世界情勢において
比較的平和な日本にも
このような重大事件が発生していたこと
忘れてはいけないのではないでしょうか?
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諸葛孔明 軍師 天才? [歴史]

諸葛孔明 軍師 天才?



諸葛孔明って本当に天才軍師だったの?



三国志演義で、日本でも有名な
天才軍師、諸葛孔明
彼は本当に天才軍師だったのでしょうか?



羽扇を手にして、初陣にて
曹操軍10万人を相手に
約5000人で撃破した

赤壁の戦いで周瑜を説得して
呉を味方にし、10万本の矢を
一夜で手に入れた

同じく赤壁にて
火計を使うために東南風をよんだ
(実は貿易風が吹くことを知っていた)
などなど



しかし、これはすべて
「三国志演義」でのお話
つまり創作



実は「三国志演義」は
創作2割、事実8割
といわれているそうですね
この「三国志演義」のモデルとなった
歴史書「三国志」
には、「三国志演義」とは異なる
戦はそれほど得意でなかった諸葛孔明
が描かれています


例えば先程の例
夏候惇10万を撃破
というのは
実は諸葛孔明が劉備軍に
参加する前のこと



赤壁の戦いでは
実は曹操軍100万を撃破したのは
周瑜であり、諸葛孔明は
それほど活躍していない
それどころか
諸葛孔明の軍才に
疑問の声を投げかけるような記述まである
というのです



では、実際の諸葛孔明
一体どういった能力を持った人物だったのか?



それは、歴史書「三国志」の中に
ヒントがあります



歴史書「三国志」の撰者
陳寿(ちんじゅ)
がこんなことを言っています



「孔明の政治の才能は
管仲(かんちゅう)・蕭何(しょうか)
に匹敵する」



管仲とは孔明が憧れた
古代中国の名宰相
斉という国の宰相を務め
斉の桓公
という人物を
覇者
にまで登らせた人物



蕭何とは
漢の初代皇帝・劉邦
(劉備のご先祖さま)
に仕えた名宰相
張良・韓信と並んで
三傑といわれた人物



この二人にも劣らない
という評価を受けた諸葛孔明
しかし、陳寿は孔明の軍才について
「蜀の丞相として
毎年、魏に戦争を仕掛けていたのに
あまり成功しなかった
臨機応変な軍才は備わっていなかったのだろう」
と述べています



つまり陳寿は諸葛孔明を
国を治めて、国を豊かにする政治力
これは極めてすぐれていた

敵国を侵略する軍才はなかった
と評していたようです



でも、諸葛孔明を味方につけてから
劉備は荊州・益州・漢中と
領土を拡張し続けているような気がするのですが
これについてはこんな説があります



益州を手に入れたのは
孔明以外の軍師
龐統・法正
この二人の活躍が大きかった
というのですね



特に法正については
後に漢中侵略にも活躍しています
曹操は漢中を劉備に奪われた際に
「私は有能な人材はほとんど手に入れた
しかしなぜ法正だけが手に入らなかったのか」
と嘆いたといいます



そして法正は220年になくなります
その2年後
222年・夷陵の戦いにおいて
劉備は呉に大敗北します



その際に諸葛孔明はこう呟いたとか
「法正が生きていたら
これほどの大敗はしなかっただろうに」



法正を失ったのちの蜀の国は
領土をほとんど拡張させられず
強大国の魏に圧迫され続け
結局263年、蜀は滅亡



しかし、中国のみならず
日本でも愛されている諸葛孔明
軍才はなかったかもしれませんが
政治能力はずば抜けていました



実際234年に孔明が死去したのち
29年もの間
強国である魏から国を保ったのです
きっと大政治家、諸葛孔明の力が
国を守ったのでしょうね



作家の吉川栄治さんは
自らの作品「三国志」にて
諸葛孔明を
「偉大なる平凡人」
と述べています



孔明没後数十年後
蜀のある老人が言うには
孔明とは
「ほかの方と特に変わったところのない方だったが
亡くなってからは、もう二度とあらわれない気がする」
と証言しているようです



偉大なる平凡人
平凡であったからこそ
1800年近い時を超えて
数えきれない人から
国境を超えて愛される
そんな天才軍師になったのかもしれません
そんな気がしてならないのです

吉田松陰 辞世の句 至誠 [歴史]

吉田松陰 辞世の句 至誠

「花燃ゆ」にて、吉田松陰の
活躍が紹介されています

公式チャンネル NHKonlineより



吉田松陰の人生は
1859年10月27日
江戸の刑場にて
最期をむかえます


その際に吉田松陰が残した
辞世の句
そして
孟子に書かれたもので
吉田松陰が口にしたという
名言
至誠にして動かざる者は
 未だこれ有らざるなり
についてご紹介させていただきたい



まず最初に
松陰の辞世の句
身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも 
 留め置かまし 大和魂

意味は
「私の命が武蔵の国のどこかで終わっても
 この自分の思想や大和魂(愛国心)は
 永遠に留めおきたい」


憂国の士である吉田松陰の
情熱が込められた句ですね



そして二つ目の孟子の言葉
至誠にして動かざる者は
 未だこれ有らざるなり
これについては吉田松陰の言葉と
勘違いされているようですが
実際には吉田松陰の言葉ではなく
中国の思想家
孟子」の言葉



意味は
「自分が誠を尽くして
心ふるわすことのない人間は
今までにない
自分が誠を尽くせば
人は必ず心が動かされるものだ」
というもの


これを一昨年の大河ドラマ
「八重の桜」にて
小栗俊さん演じる吉田松陰が
第5話「松陰の遺言」で口にしてましたね



「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」



志を大切にした吉田松陰
この志を持たないことを
何よりも恐れていました



先日の「花燃ゆ」にて
「フグを食べるべきか否か」
という題材で松下村塾の塾生が
議論をする
という回がありました



喜んでフグにがっつく塾生
そんな中で決して箸をつけない松陰
なぜか
志半ばにして、志に向けた死ではなく
関係のない死を嫌がったため
後の伊藤博文から解説がありました




これをもって生きることが
大変で難しい今日
今こそ
思い出すべきことなのかもしれません
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井伊直弼 家紋 [歴史]

井伊直弼 家紋



安政の大獄を実行して
吉田松陰を処刑した
幕末の幕府大老井伊直弼
井伊家の家紋とは
いったいどんなものなんでしょうか?
それから、もう一つ
井伊直弼はなぜ吉田松陰を
処刑しなくてはならなかったのか?
調べてみました



2015年放送の大河ドラマ
花燃ゆ
井伊直弼を演じるのは
高橋英機さん
まずは井伊直弼の家紋
丸に橘(彦根橘)ですね



井伊家の家紋が丸に橘に決まった理由は
井伊家の始祖である共保(ともやす)
彼の出生にあります
実はこの共保という方
捨て子だったようです
井伊谷という場所の八幡宮にあった井戸
そこで拾われた共保さん



その井戸に捨てられた共保さんには
橘の果実が添えられていたそうです
井戸のそばで拾われたために
苗字には「井」の字が使われ
橘が添えられていたために
家紋は「丸に橘」ということですね



鎌倉時代から続く井伊家
一時期衰退し、滅亡しかけますが
徳川家康の時代
徳川四天王」の一人
井伊直政の時代に持ち直します
まさに井伊直政は井伊家中興の祖




武田信玄を尊敬していた家康は
武田軍団最強の赤備えを
井伊直政に再現させ
井伊家の部隊は「井伊の赤備え
として徳川最強軍団とされます

ちなみに赤備えは、大坂夏の陣で
真田幸村の部隊でも使用され
徳川家康の馬印を倒すという
武田信玄と幸村のみ成し遂げた
抜群の働きをしたのです




そして井伊直政は家康の信頼を得て
直政の娘は
家康の四男・松平忠吉の嫁になります
これによって松平信吉の義父となり
関ヶ原の戦いにおいては信吉を補佐
猛将福島正則を出し抜いて
先陣をきるという活躍



関ヶ原の戦い後、褒美として
石田三成の居城、近江佐和山城
この名城をもらった井伊直政
ただ、敵の石田三成の居城を嫌った直政
新城を築城しますがその途中で病没


井伊直政の息子の直勝は
彦根藩に移動して彦根城築城
幕末まで彦根藩は存続します



彦根藩では5人の大老を輩出する
名門として江戸時代を過ごします
ちなみに明治時代に井伊家は
伯爵の爵位を手に入れてますね






さて、井伊直弼ですが
彦根藩では14男という
家督相続が行われるとは
夢にも思っていなかったでしょう





井伊直弼は14男で
生涯、日が当たることはない
といわれながらも
文武の修行を怠ることはなかった
といいます



ちなみに武芸以外にも
茶道や和歌など
風流に通じたことによって
井伊直弼は「チャカポン(茶・歌・鼓)」
とあだ名されたといいます




では、運命づけられたように
彦根藩主となり
そして幕府大老にまでなった
井伊直弼
なぜ吉田松陰を処刑したのか?
それを述べていきたいと思います



まず、井伊直弼と吉田松陰
お互いに相手をどう思っていたのか?



当然かもしれませんが
井伊直弼からすれば、吉田松陰は
全くのアウトオブ眼中
彦根と藩30万石の藩主である直弼
長州藩士の松陰のことを
意識していなくて当然です



では吉田松陰は井伊直弼のことを
どう見ていたのでしょうか?
実は吉田松陰は井伊直弼のことを
名君として賞賛していたのです
なぜ?





井伊直弼さんは、彦根藩では
非常に領民思いの名君
として慕われています
藩主になった際
真っ先に領民を気にかけて
抜群の藩政改革によって
善政を敷いたといいますし



そんな直弼を知った松陰は
非常に感動し、自分の兄貴に
手紙でその感動を伝えたほど
しかし、そんな松陰を
絶望させる事件が起こってしまいます
日米修好通商条約の締結です



その前に知っておいてほしいのは
松陰は尊王思想家ではありましたが
討幕派ではなく佐幕派
それでいて結構な過激派
だったのです



つまり、京都の朝廷を
非常に尊重していたのが
吉田松陰なのです



そんな中で、井伊直弼は
朝廷の許しももらわずに
勝手に日米修好通商条約を
結んでしまいます
この日米修好通商条約
領事裁判権(治外法権)
関税自主権なし
という
非常に不平等な条約でした
国を開くためには
新興国日本が諸外国に圧力をくらう
仕方ないことであったのでしょう



しかし、そのことに切れたのが
尊王、過激派の吉田松陰
朝廷を軽んじて許可を得ず
しかも不平等条約を受け入れた
井伊直弼に対して
マッドネス松陰はさらに狂暴化
井伊直弼の腹心の
間部詮勝の暗殺を企てます




間部詮勝とは
安政の大獄という井伊直弼の
反対派弾圧運動を主導した人物



間部詮勝を暗殺したほうがいい
と、藩の重役・周布正之助に進言
ご丁寧に暗殺計画の詳細をも上表した
マッドネス松陰


黒船に乗って国外脱出までした
行動力抜群の松陰を警戒した長州藩は
松陰を再びとっ捕まえて野山獄へ
マッドネス松陰
再び獄中へ



その後の松陰は江戸へ送られ
幕府の取り調べを受けます
松陰という過激派を放っておいたら
自らの身も危険な井伊直弼
吉田松陰の処刑は
避けられないものだったのでしょう
そして、1859年10月27日
吉田松陰、斬首
享年30歳



その後、松陰は尊皇派の水戸藩士に
襲撃され
1860年3月3日
桜田門外の変で死去
享年46歳



吉田松陰が埋葬されたのは東京世田谷の
松陰神社
そして井伊直弼が埋葬されたのは
同じく東京世田谷の
豪徳寺
というお寺
豪徳寺は井伊家の菩提寺ですからね



世田谷線の松陰神社前と
小田急線の豪徳寺
同じ世田谷区ですね
安政の大獄で
処刑された松陰と



処刑した井伊直弼




150年後に同じ地区で眠っている
なんだか不思議な縁がある気がしますね


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